IgA腎症の検査と治療概要(2010年11月~2020年4月)

総合病院腎臓内科での検査から、確定診断、現在の治療までの過程を記します。

 

2010年10月診療所で紹介状を書いてもらう

毎年7月に会社で健康診断を受けるのですが、2010年7月の健康診断で、私は尿蛋白と

尿潜血が共に「3+」の判定が出ました。血圧も上が140以上ありました。

2010年10月に近所の診療所に受診し、再度、尿検査と血圧測定を実施。尿検査は蛋白・潜血共に「2+」。1日蛋白定量は「推定2g以上/day」でした。血圧は上が135。

1日尿蛋白定量は、0.5g以上だと異常があるとみなすとのことで、総合病院の腎臓内科に紹介状を書いていただきました。

数年前から蛋白・潜血は出ていた

実は、2003年か2004年から尿蛋白と尿潜血は出ていました。にもかかわらず、腎臓内科へ行き着いたのが2010年と遅くなってしまいました。この理由については、あまり読者の皆さんの有益な情報ではないと思うので割愛しますが、もし要望があれば、別の機会に記したいと思います。

2010年11月腎臓内科初受診

紹介状を持って、総合病院の腎臓内科に初めて受診したのが2010年11月。この日の検査では、尿蛋白・尿潜血共に「2+」。クレアチニン「1.1」。血圧は上が150を越えていました。どうも私は、白衣高血圧の気があるみたいです。

次の受診までに24時間蓄尿を言い渡されました。溜めろと言われると尿はなかなか出ず、大変困った記憶があります。結果、蓄尿量1100ml、蓄尿蛋白定量0.9gでした。腎臓内科でも1日尿蛋白は0.5g以上だと異常とのことで、腎生検をして腎臓の状態を調べることになりました。

2011年2月腎生検

2011年2月、腎生検のため、9日間入院しました。腎生検で内出血を起こし、血圧が極端に低下。MRIを受けるというハプニングがありました。また、その後の腰を圧迫する辛さなどは他の方のブログで多数紹介されているので、ここでは割愛します。もし要望があれば、別の機会に記したいと思います。

腎生検の結果、「IgA腎症」との診断が下され、今後の治療方針について説明を受けました。現在もこうした基準があるのかは不明ですが、当時下された私のIgA腎症の診断は、「予後比較的不良群」に該当するものでした。つまり、5 年以上20 年以内に透析療 法に移行する可能性があるということです。

2011年3月扁桃腺摘出

2011年3月、腎臓内科と同じ総合病院の耳鼻科で扁桃腺摘出の手術を受けました。2011年3月12日のことです。そう、あの「3.11 東日本大震災」の翌日です。

東日本大震災が発生した日に入院し、9日後に退院しましたが、この間テレビや新聞はおろか、世の中の情報のほとんどを遮断していたため、東日本大震災の惨状を全く知らなかったのです。退院後に「どうなってんだ??」という状態になり、まさしく浦島太郎状態でした。

扁桃腺摘出直後の喉の激痛についても他の方のブログで多数紹介されているので、ここでは割愛します。もし要望があれば、別の機会に記したいと思います。

2011年4月ステロイドパルス療法

2011年4月に3度目の入院です。ステロイドパルス療法を5日間受けるためです。私が入院した病院では、ステロイドパルスは5日間連続の1回のみで完了というスタイルでした。

ウイルスをもらい4回目の入院

2011年4月、ステロイドパルス療法が終了し退院した日の深夜、急に気持ち悪くなりました。下痢と嘔吐のオンパレードです。これはまずいと思い救急車を呼びました。ステロイドパルスで極度に免疫が下がったところに、何かのウイルスをもらったみたいです。熱も40℃近くあり、退院したその日に再度、入院することになりました。幸い、腎機能の数値が悪化することはなく、5日後に退院しました。

ステロイドARBの服用

ステロイドパルス後は、ステロイドの錠剤(プレドニゾロン)と腎保護作用のためのARB(ディオバン)の錠剤を服用しました。プレドニゾロン服用中は、胃薬のPPIパリエット)も処方されていました。

プレドニゾロンは30mg/dayからスタートし、25mg/day、20mg/day、15mg/day、10mg/day、7.5mg/day、5mg/day、2.5mg/day、1mg/dayと減らしていきましたが、記録が残っていないため、どういったスケジュールで脱ステロイドしたのかが不明です。

ディオバンについては、病院の都合で途中でミカルディスに変わり、現在は院外処方となったため、オーソライズジェネリックを受け取っています。

つまり、2011年4月時点では、IgA腎症の治療薬としては、ミカルディスのオーソライズジェネリックだけを服用しているということです。